例へば、私は好きと云ふ感情ほど身勝手で、女々しくて、儚く美しいものを知らないが、美しいと云ふ感性ほど身勝手で、女々しくて、大量殺戮の正當化の手段に適したものはない。我々人類は前者とは直接、後者とは間接的に關はり合ひに成つてきた。
前者の云ふところでは、他者の面影に自らの欲望重ねる自由な人々が非常に多いのだが、他者の形像に誘發される其の好意は、決して固定化された共通認識ではなく、あなたの純粹な性欲に過ぎない。若し、あなたの見てゐる他者が意志薄弱で、あなたの軸に生きてゐるのならば、あなたは本能的に歪んだ刀で、他者の自律性を攻撃してしまふ。詰り、主體性を持つたあなたの發狂が、無自覺に客體を攻撃してゐるのである。
後者に於ては、主體對主體の力學の演壇に立つて了へば、原子衝突が如く、全てを破壞し盡くしても尚飽き足らない爭ひに男達を驅り立てる。何故なら、我々は暴力性を帶びた主體性に美を感じ、主體的他者に展開される暴力に學び、抵抗する。相手を同じ動物と捉へないからこそ、對立があり、決鬪がある。
實に殘酷な話だが、テレビが繰り返す幻想とは異なり、暴力無しに多樣性などは産まれるはずもなく、無制限の主體性を肯定する立場であり乍ら、自己防衞を禁じられた哀れな客體である立場を兩立する事は不可能である。此れは、二十一世紀の過度な物質主義に産まれた劣惡なプロパガンダの欺瞞だ。詰り、意志薄弱者が意志薄弱者に向けて展開するプロパガンダの暴力である。
私の提唱する宣傳主義とは、主體性を持つ自己が、積極的に宣傳を繰り返し、特定の意思を持たない人々を含んで、あらゆる手段で同一化を圖るべきであると云ふ思想だ。基本的に人は動物であり、自由を確保する爲に鬪ふのだから、當然主體性を持つ人が多ければ多い程、銃火は荒れ狂ふ。ただし、其処に代表者が存在し、絶對の宣傳を行へば、はじめて、無秩序の空間に一つの軸が産まれるのだ。
此の思想を根幹とすれば、カルトは自然淘汰されるほか、やがて、各勢力の保有する核の威光を前にして、彼等は表面上の握手を交はさざるを得ない。彼等が鬪はなくなつてしまふ事は、一見此の思想の論理的矛盾のやうに見えるのだが。多くの人が自らの意思で、やゝ曖昧な個人主義を抛棄し、主體者への忠誠心に生きる時。質の高い鬪爭と、暴力への抑止力。此の二つの大きな力が同時發生して、此れ等の事物は適切に調和するのだ。今日我々は、此の現象を平和と呼んでゐる。平和は力学の釣り合いに成り立つているのだ。
主體、客體、他者、空間、時空。此れらの事物の關係性に就いてよく考へてみれば、改めて人生の意義や、他者との間に發生する價値觀の相違を理解し、認識出來るだらう。
–神田隼大『宣傳大戰』文化院 令和五年