常に人類は鬪ひに依存してゐる。我々が他の動物と比べて壓倒的な智能と文明に恵まれようとも、今日も我々は毆り合つて、斬り合つて、銃火を交へざるを得ないのだ。此れらの對立關係は、諸君が泥棒から財産を守る爲に玄關に鍵をかけて、夜道で暴漢から身を守る爲に催涙スプレーを持ち歩く行爲が、群衆化されたものに過ぎない。當然、貴女は電車で痴漢と居合はせる事を避け度い。其の先入觀を經て漸く我々は『自衞』と云ふ結論に歸着する。
我々は何故此れ程の言語的感覺を誇り、充分な生活を送り乍らも、他者に暴力を振るつたり、他者によつて射殺され續けなければならないのか。私は此れを文明と人類の關係性が未發達である事が問題であると理解する。
假に我等が皆、世界平和、平等と云ふ美しさを前に平伏すのならば、最早我々は家を建てずに、土に根を張り光合成をくりかへして生きていくべきだらう。若し我々人類が此のやうに成り果ててしまへば、やがて、他の動物が爭ひを繰り廣げるだらう。若し、彼らさへも草木と成り果てれば、自然科學に依存したヒエラルキーが形成される。
詰り、我々が幸福を追究するためには、家を建てれば生態系が變化するやうに、動物を屠殺せねばならぬやうに、どうしても彼らの屍の柱に屋根を設置せねばならないのである。其れでも我々は此の生活を惡だとは捉へず、此の巨大な箱庭の鬪爭に於る勝利だと捉へてゐる。我々の衣食住の充實は、我々の意思ではなく、他の動物と同樣に生命を維持する爲に行はれてゐる。そして、誰であらふと、自らの活動を脅かす存在と共存してゐる。科學的に言へば、命と死、火と水、白と黒、暴漢と女性。政治思想で云へば、右と左、資本主義と共産主義、國家主義と無政府主義。此れらの共存に必要な妥協は迚も困難なもの許りだ。水牛にとつてのライオンのやうに、異なる文明も至極當然、其れぞれ對立してゐるのである。
民衆に於ては、食を充實させる爲に學位を取得するインテリと、住を充實させる爲に腕力で家を建てる勞働者は根本的に同じ動物ではあるのだが、異なるケージに生活してをり、互ひを攻撃しあふやうなことは滅多にない。
然し、勞働者の腕力がインテリを脅かしたり、インテリが勞働者を限りなく搾取するやうな法律を作る時、漸く人々は、自らの主體性を守る爲に拳を強く握り締めざるを得ない。詰り多くの銃を握る男達を外から見ると、賢者達に動員された銃劍でしかないのだが、本當は彼等は殺し合ひ度いわけではなく、愛する家族を護り度いと云ふ純粹な願ひに對して極めて誠實に、勇敢に立ち上がつてゐるのである。軈て、文明を切り拓く賢者達は、彼等を思想の實現に動員する。よつて、思想と銃火器の文明によつて擴大された生存鬪爭を、戰爭と呼ぶ。鬪爭の過程で現れる敵を、純粹な惡だと憎惡する我々の思想こそが、人によつて行はれる大戰爭への潤滑油なのだ。
我々が此れらの泥沼と縁を切る爲には、生物であることを辭めざるを得ない。よつて、現實的に妥協をするなら核兵器を保有する事や、軍擴によつて、抑止力を育てる他ならないのだ。我等文明に生きる人類ならば、威嚇を理解して、どんな惡黨でも、生命への執着を前にすると、妥協せざるを得ない筈なのだ。
勿論私は平和を願ふが、數萬年前まで他の動物と同じ生活をしてゐた人類の進化の速度では、最尖端の智性による文明の發展に追ひ着く事が不可能である。民主主義社會に於て、智識人は自らの思想の啓蒙宣傳を積極的に行ひ、社會哲學と民衆の距離を縮める責任がある。そして、全ての民衆は社會哲學の基盤に拓れた自由と幸福に生活する義務がある。
–神田隼大『宣傳大戰』文化院 令和五年